2012年2月22日水曜日
2012年2月22日水曜日
長い歌 作詞/及川恒平作曲/ 原茂
長い歌
【2012年記】
この歌は「歌のはなし」を歌を作った順番にならべたとすると、
ごくはじめのほうに書かなければならなかったものだ。
当時は書いたからと言って何か録音物として残すなどの発想は皆無だった。
原氏とぼくだけが特別そうだったのではなく、フォークソングなるものの商品価値など、
誰も考えてもいない時代のことだ。
ぼくらは、アメリカのウェストコーストに生まれた音楽に魅入られたのだった。
フォークというかロックというか、その新しい音楽に惹かれて、
そのような曲を自分たちの手で作ってみたいとおもったのが動機だっただろう。
ぼくの一歩前を行く原氏は、当時としては斬新だったギターの変則チューニングを、
LPレコードやラジオ番組からからコピーして、よく聴かせてくれたものだった。
クロスビー、スティルッシュ、ナッシュ(&ヤング)や、ジョニー・ミッチェル、ザ・バンド、
グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ジェーム・ステイラー。
あれもこれもと、名前をあげだすときりが無いのだけれど、それまでにはなかった開放感を、
彼らの音楽にぼくは感じていた。
そしてサウンドとしてインパクトがあったものの代表が、ギターの解放チューニングだ。
ジャズやブルースから技法を借りていた最初のうちは、ギターのチューニングといえば、
ほぼ決まっていた。6弦からE,A,D,G,A,Eである。
6弦をEからDにするチューニングはクラシックギターの奏法にもあることはあった。
しかしこの頃開発されたチューニングはそんな程度ではない。
代表的なものは、例えばD,A,D,F#,A,DのDチューニングや、
D,G,D,G,B,DのGチューニングなどだけれど、じっさい無数といっていいほどある。
なにも律儀に本来1弦を張るところに1弦を張る必要もないのだ。
しかもレコーディングでは、その一曲のためのチューニングをかんがえればいい訳だ。
もちろん原氏もときどき、いろいろ考えついては聴かせてくれた。
そう、この「長い歌」もその数ある変則チューニングのひとつが使われていたのだが、
残念ながら、今ぼくはそれを記憶していない。
それに、最初に彼自身が、考えたチューニングからだんだん変わっていったりもしたから、
もうどれが正解ともいえなくなっている。よくある話だ。
ここからが肝腎な「歌のはなし」である。
2004年記でもふれているが、この曲の構造はたぶん原氏の独創だろう。
コード進行は5小節単位で2回、つまり10小節で1コーラスだ。
しかし、曲の流れとしては、4小節4小節2小節の10小節だから、ぴたりと合うわけだ。
聴いてもらうとわかるが、不思議なほど自然だ。しかも美しい。
何コーラスでも繰り返したくなるという、すぐれたポピュラー音楽には必須のループ感がある。
ところで、2004年記ではグループ構成のことも書いてあるが、
2012年現在そのあたりの情況は大きく変化している。
まず小室等、四角佳子とぼくの三人で、その名も、
「まるで六文銭のように」と言うユニットを結成し、それぞれがソロの傍ら数年活動した。
その後、小室の愛娘、こむろゆいを加えてと「六文銭’09」として新たにユニットを作った。
それぞれ1枚ずつCDアルバムを作っている。
その後小室親子は「ラニアップ」というユニットを作った。
もちろん、それぞれがソロとしての音楽活動もしている上での話だ。
ところであと10年後、それぞれどうなっているだろう。
あまり残された時間はないので、けっこう一生懸命だ。
【参考】 http://www005.upp.so-net.ne.jp/folk/Koubai-Bellwood.htm
★
【2004年記》
原茂のソロアルバムが再販された。僕が書いたものは一曲「私の家」が収録されている。
ここでとりあげる「長い歌」は、「私の家」に先立ってかかれたものである。
たぶん、僕が劇中歌を流用せずに、六文銭のステージのために書いた最初の曲だったと記憶している。
いや、待てよ。「まわる」という、わけのわからん歌が先だったかも知れないなあ。
それとも「まわる」は詞曲とも原だったかなあ。
ともかく、原茂と書き出した方が、小室等と書くより先だったとは思う。
「長い歌」を書いたのは、時期的には小室と「出発の歌」を書くことになる1971年夏より前、
その年の春以前、もしかしたら前年だろうか。レコード盤として収録されたのは「私の家」が先で、「キングサーモンのいる島」に入り、「長い歌」は「六文銭メモリアル」に就職先がのちに決まった。
この曲の構成は実にたくみである。10小節でワンコーラスであるが、
コード進行は5小節ずつ正確に繰り返されているだけである。
ところが、歌つまりメロディは、4小節+4小節+2小節と構成されている。
コードが5小節単位だから、ずれが生じているわけだ。
しかし、歌ってみるとこのずれはただものではないということに、気がつく。
みょうに気持ちがいいのだ。みょうに、などと思って歌いつづけると、随分となり、やがてはまる。
根がシンプルな歌だから、実際歌ってみて、呪文のようなループ感覚に僕はとらわれた。
こんなワザを当時原茂は、きっと無意識に使ったに違いないのだが、どう考えてもスゴイ。
そして「私の家」が醸し出す開放感とはちがった、湿度がここにはある。
ただし、やはり彼の感性は同じ湿度といっても、日本の梅雨、とはだいぶ異なっている。
この歌は原茂の作品としては、「私の家」ほどの評価を受けなかったけれど、
僕としては、この曲に肩入れしたい。
先日(2004/10/23)、横浜イギリス館で『まるで六文銭のように』の何回目かのコンサートをした。
当日は『猫』の常富くんにもゲストで歌ってもらったが、『まるろく』のほうは、
僕ら三人+こむろゆい、細川圭一の五人だった。
僕自身は、楽しめたライブだったし、音楽的にも刺激を受けた。その中で印象に残ったことがある。
小室、マイクの前で曰く。
「『まるで六文銭のように』って、名前として長いの長くないのとの話もあったけれど、
結構いい名前だよね」
リーダーとしては、そして六文銭創始者としては、考えることがあったのだろう。
ところで、その言葉を聴いていて僕なりに、ピンとくるものがあった。
多分、23日当日喋ったと思うのだけれど、単に心中での発言だったような気もする。
それは、こういうこと。
僕にとっては、1969年からこのグループ解散時の72年まで在籍した「六文銭」は、
参加した当初から「まるで六文銭のように」だったことに気がついたのだ。
開店休業状態だった「六文銭」をやりたいと小室をけしかけたのは僕だ。
ちなみに再結成の1969年から解散まで在籍したのは、リーダーの小室と僕だけだ。
そして原茂は解散時のメンバーだ。
小室にも手ごたえはあったからこそのスタートだったのは当然として、
僕の中には小室等や入川捷、石川鷹彦などの六文銭が、すでにイメージされていた。
だから、小室に申し出たときは、そう、つまり「まるで六文銭のように」歌いたかったのだ。
今回のイギリス館の五人のユニットも悪くない。
(前奏) イントロ
Ⅱ: FΔ C :Ⅱ
FΔ C FΔ D
長 い 季節 が 不意 に 去っ て
G FΔ C FΔ D G
もう 暫ら くは 一人 で 歩い て いよ う
FΔ C FΔ D
熱 い 心 で 過ごし た 日々 も
G FΔ C FΔ D G
ん…… 僕 の 人生 の たっ た ひと こ ま
FΔ C FΔ D
ここ で 君 と 巡 り 会っ て
G FΔ C FΔ D G
ん…… 仮 初 の 過去 を 忘れ る だ けさ
FΔ C FΔ D
夢 の 公 園 回 転 木馬 が
G FΔ C FΔ D G
ん…… 回 り 続け る 二人 を の せて
Ⅱ: FΔ C :Ⅱ ×anytime
ん……