2012年1月5日木曜日
2012年1月5日木曜日
夢のまた夢 作詩 /北村魚・及川恒平 作曲/及川恒平
Dm A7 Dm ≒ Dm Gm ≒ A7
夢のまた夢 なんの夢 あの街 この街 日が暮れ て
C Em Am ≒ Dm A7 Dm ≒
赤い 草履の 緒が切れた 夢のまた夢 なんの夢
Dm A7 Dm ≒ Dm Gm ≒ A7
夢のまた夢 いつの夢 回り灯篭 辿るよう な
C Em Am ≒ Dm A7 Dm ≒
一人 ぼつちの 隠れん 坊 夢のまた夢 いつの夢
Dm A7 Dm ≒ Dm Gm ≒ A7
夢のまた夢 おそい夢 落ちてく 黄昏 追い掛け て
C Em Am ≒ Dm A7 Dm ≒
はぐれた 片手の お人形 と 夢のまた夢 おそい夢
Dm A7 Dm ≒ Dm Gm ≒ A7
夢のまた夢 だれの夢 お背戸の 薮の 指切り を
C Em Am ≒ Dm A7 Dm ≒
いつか 忘れた 花嫁 の 夢のまた夢 だれの 夢
Dm A7 Dm ≒ Dm Gm ≒ A7
夢のまた夢 遠い 夢 あの子と 二人 海の 中
C Em Am ≒ Dm A7 Dm ≒
それとも 一人で 船に乗 ろ 夢のまた夢 遠い 夢
【 2012/1/5記】
まずニューミュージックマガジンを発刊されていた中村とうよう氏が、2011年永眠された。
遂に直接お目にかかることが出来なかったが、ご冥福をお祈りします。
さて、ご存知のこととは思うが、念のために。
この曲のタイトル「夢のまた夢」は、豊臣秀吉の辞世と言われている、
露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
の第五句からとられている、と思う。
関わっていた劇団の台本だけをたよりに、ぼくはこの曲を書いたような気がする。
気がするというのは、自分の事なのに変でしょうとおもうデショウ。
しかし、ほんとうに細部の記憶どころか、全体の記憶も今となってはとんでいる。
いや、実際芝居とは無関係に書いた気さえしている。
だから、秀吉の辞世を借用したと、、、台本作家から訊いたとかいうのではない。
でも、まあ、常識的に考えてそれ以外考えられない。
ただし、この歌は、六文銭のレパートリーにするにあたり、
北村トトの力もかりて、5コーラスぶん作った。
しかし、実際に記録としては4コーラスしか残っていない。つまり3コーラス目が省略された。
省略された理由は、シンプルで、一曲としては長過ぎると思われたから。
曲の構成についても、ある程度記しておきたい。
A7からC、AmからDmへの転調は、音楽をチャンと解っている人には気になるらしい。
ぼくの所属しているバンドのリーダーでさえ、おまえの感覚はちょっとなあ、、と言ったぐらいだ。
精確に言えば、このリーダーが受け入れてくれなかったら、
ぼくの作曲したものの半数ほどは、この世に残っていなかったと思う。
いや、ぼくはフォークの世界には入れてもらっていないだろう。
彼には感謝以外にない。
★
【2003年4記】
ぼくの二十代に作ったものだが、劇中歌だったかさえ、すでに忘れている。
きっとそうなのだろう。
北村は、ぼくの青学の演劇部時代のメンバーで、本来は女優だが、
現在は演出を兼ねているらしい。
なかなかユニークな絵を描くひとで、そちらのほうでも活躍してほしい。
ぼくのソロのファーストアルバム『忘れたお話』のジャケットの絵をはじめ、
ぼく関係でも、けっこう絵の仕事をしてくれている。
音楽系の雑誌にぼくの歌詞と組み合わせて、絵本風のページを構成したり、
ぼくの雑文には、よくカットとしてクレヨン画を提供してくれた。
また、千趣会で作ったぼくの詩集は、彼女の絵とのデュエットである。
ところで、あの詩集は市販したのだろうか。
たしか、十人ほどの文章書きのシリーズとして作った豆本だった。
さてこの歌だが、六文銭でのレパートリーだ。演歌的なリズムと言葉を多分に意識している。
ちょっとしたヒネリはくわえられている、との思いもあるのだが、
基本的には、演歌、もしくは時代がかった童謡だろう。
書かれている世界は、今思うと、ぼくというより、トト(北村)のもののようだ。
正確には、あの時代のものと言うべきか。
六文銭の歌としては、ゼッタイウケナイ自信があったのだが、
一時期は六文銭のメインレパートリーだった。
これも時代のおかげと言っていいだろう。
この頃、ブンチャチャブンチャー、ブンチャチャブンチャーという
オモッ苦しいエイトビートとでも言えるこのリズムは、別に演歌独特というのでもなかった。
さすがグループサウンズ時代にのその手の楽団には
少なかったと思うが、和製フォークソングには登場したような気がする。
とくにアングラ演劇とむすびついたフォークにはあっただろう。
僕の書いた曲が書店に並ぶようなものに初めて載ったのを、書き留めておきたい。
中村とうよう氏がつくった「ニューミュージックマガジン」は当時、
レコード会社からは相手にされないような歌を譜面で紹介するページがあった。
たしか1970年の12月号だったと記憶するが、ぼくの作曲したものが掲載された。
「グッバイ、ジョー」という流山児祥さんの作詞によるその歌は、夢のまた夢と同様の
ブンチャチャブンチャー、
のリズムで書かれたものだった。
ただし歌詞は過激という理由で変えられていた。
どうということもない言葉の羅列だったが、どんな理由で発禁にもっていかれるかわからない、
そんな時代だったということだろうか。
そんな周りの緊張感を気にしつつも、ぼくは近所の書店で、その号を二冊買った。
間違いなく、うれしかったのだ。
夢のまた夢
名古屋・聴松閣、なごりの櫻。