2012年1月30日月曜日
2012年1月30日月曜日
さわがしい楽園 作詞/及川恒平 作曲/井上鑑
C /G C F G
街を 去った人 よ もう帰って 来るな
C/B♭ A7 Dm7 C
今はすでに 此処も 眠る 場所じゃないよ
F/Fm6 C F/Bm7-5 E7/G7
ぎらつく陽の 下で 陽炎のビル ゆれる
C/B♭ A7 Dm7 C
眼を とじて しまえば 生き残れる 街さ
C F G E7 Am7/Fm7onA♭
誰が 何処へ 行こうとも 構わないけれど
ConG F/Em7 FonG C ÷
私はいる このさわがしい 楽園 に
C /G C F G
街を 去った人 よ もう何も 望まないで
C/B♭ A7 Dm7 C
故郷(ふるさと)みたいに ここに 戻ることは 出来ない
F/Fm6 C F/Bm7-5 E7/G7
何処か 遠い 国で 安らぎだけを 掴む
C/B♭ A7 Dm7 C
それが 出来る ならば ほかは いいじゃないの
C F G E7 Am7/Fm7onA♭
誰が 何処へ 行こうとも 構わないけれど
ConG F/Em7 FonG C ÷
私はいる このさわがしい 楽園 に
C F G E7 Am7/Fm7onA♭
誰が 何処へ 行こうとも 構わないけれど
ConG F/Em7 FonG C ÷
私はいる このさわがしい 楽園 に
【2012年記】
個別「さわがしい楽園」については、ある程度かってのこの欄に書いたので、
当時のぼくの歌作りのことをきままに書いてみることにする。
1972年に作詞した「出発(たびだち)の歌」が、流行歌として認知されたため、
それからは作詞家としての仕事が来るようになった。
実は「出発の歌」より前に作詞経験はほとんどなかったにも関わらずだ。
今となれば、そんな無謀な作詞家体験も、勉強になったと自分でも言えるが、
当時はとまどいと夢中の入り混じった、妙な感覚がずっとつきまとっていた。
つまり、演劇の中では、劇中歌づくりを担当することが多かったので、
台本作家の作った歌詞に曲をつくることには、いくぶんなれているつもりがあった。
なぜ「出発の歌」の歌詞を書くことになったのかは、ほうぼうで言っているので、
ここでは繰り返さないが、ともかくぼくは、作詞家としてデビューとみなされたのだった。
すぐに、歌謡曲の世界に首をつっこむようになったが、作曲家として扱ってくれたのは、
あとにも先にも、阿久悠さん唯一人である。
LPアルバムの片隅とはいえ、あのちあきなおみさんに、
作詞阿久悠、作曲及川恒平で歌を残せたことが、うれしい。
閑話休題。
作詞者としての仕事はいっとき、多忙をきわめた。
いい作品を、多忙のなかでこそ残すのが、流行作家というものだが、
ぼくの場合はただただ質の低下をまねくだけだったようだ。
やがてぼく自身も、それがいやで身をひくことになった。
もう誰も歌うことも聴くこともないものとはいえ作品として、
一時はそんざいしたもののひとつが、テレビドラマの主題歌「さわがしい楽園」なのだ。
*
【2005年記】
記憶のあいまいな歌をとりあげる。あいまいというか、タイトル以外、ほぼ憶えていない。
題名だけは、なんとか記憶に残っていて、さも僕がつけそうな印象だ。
「さわがしい楽園」は1977年、TBS系のTVドラマ「人間の証明」の主題歌として、
りりィさんが歌ったものだ。
僕が、これだけ記憶していないのは、どうも録音現場にたちあっていないせいもあると思いたい。
しかし、それだけでは説明がつかないほど、ぼんやりしているが、
今回はそんなこと言っているばあいじゃない。
前回の歌のはなし(旧サイト)でとりあげた「終りのない歌」の終りのほうに、
「さわがしい楽園」にちょっとふれた。
そうしたら、この歌についての資料の提供を、複数うけた。
それで、驚いたのだけれど、僕が思い込んでいた歌は、別のものだった。つまり、
恋の破片がつきささったままぁ~♪
という歌は「バニシング・ポイント」というもので、桑名晴子さんが歌った。
と、自信たっぷりに言えるのは、思い出したからだ。なにがって、録音スタジオの風景をだ。
桑名さんがヘッドホーンをつけて歌っているのを、しっかりと記憶していた。
いや、記憶していたというのは、変だ、忘れていたのだからな。
いや、記憶していたから、思い出したのだ、といのはがんばりすぎか。まあいいか。
しかし、インターネット上にながれている「バニシングポイント」の歌詞は、ちょっとちがうぞ。
それから、どこかの出版社の「さわがしい楽園」の歌詞カードも、ちょっとちがうぞ。
前回に引き続いて、詞先(しせん)、曲先(きょくせん)のこと。
多分この曲は井上氏の曲先だ。
なぜなら、力ずくで歌詞の音数あわせしているような箇所が見える。
「陽炎のビル揺れる♪」あたりがあやしい。助詞の省略が生きる箇所とは思えない。
「私はいる この騒がしい楽園に♪」の倒置も、ちょっと作為を感じる。
「安らぎだけを掴む それが出来るならば♪」の、わさわざのギアチェンジはどうなのだろう。
言いたいことはわかるけれど、そりゃ自分が書いたんだモノ、したったらずな印象は否めない。
曲先のばあいどうしたって、どこかにそんな痕跡があるものだ。
最近はよくあることだと、もれきくが、
はちゃめちゃイングリッシュで歌ったデモテープを貰って歌詞をはめこんだことがある。
はじめはびっくりしたけれど、作曲側の事情がだんだんわかっていった。
つまり英語にあるニュアンスを大事にしたいとすれば、それ以外に方法はないのだ。
ただし、日本語で歌詞をかかなければならない僕は、どうしたらいいのだ。
そんなイントネーションを再現するのはとうてい不可能だった。
フツウの日本語で書いて、おそるおそる提出したのだった。
彼は、そんな僕の苦悩などてんで気がつかずに、喜んでくれた。気が抜けた。
しかーし、ここまで書いてはっとしている。
もしエピソードまでつけ「さわがしい楽園」が詞先だったら、
いったい僕はなんと弁解すればいいのだ。
井上氏はじめ、関係者全員すっかり忘れていることを祈るのみ。
作曲の井上鑑氏のこと。
彼は、なかまうちでは「Akira-san」とか「~kun」とか呼ばれていて、
年下だったせいか、それともあの風貌からかアイドルっぽく愛されていた。
ときどきは僕の家にも足を運んでくれた。そのころ僕は、紙相撲にはまっていた。
後輩のミュージシャンが持ち込んだのがきっかけだったが、
日々、紙の力士を誕生させては、ボール紙で作った土俵の上で取り組ませていた。
ちゃんと本場所もあり、当然、前相撲からあるし、番付もあれば、電飾の国技館もあるという、
ホンカクテキなものだったのだ。
その紙相撲に、鑑さんも力士を何人か提供してくれた。
けっこう、ちゃんと付き合ってくれたのだった。
僕をケイベツしたりせずに、ありがとうと伝えたい。
そんななかまのひとりベースのキンダイチ氏が、
札幌駅の北で喫茶店をやっていると聞いた。今度札幌に行ったら、づぇったい探すぞお。
鑑さんのこと。
僕が当時のラジオ関東で深夜放送を担当していたころ、
ヤマガタスミコさんという、愛らしいフォークシンガーが登場した。
僕のの担当のあと、午前3時からは故山平和彦が担当していて、
そちらの時間によく出演していた。もしかしたら、レギュラーだったかも。
じきに、鑑さんと一緒になられたのだが、僕には電光石火のごとく感じられた。
そして、彼の活躍はいっそう幅の広いものになっていった。
そう、僕はといえば、前回の「歌のはなし」に書いたように、
いっそうハバのせまいものになっていったのであった。
紙相撲などの遊びも、続ける環境からは程遠いことになっていった。
ところで、2番の故郷をフルサトと読ませているけれど、
コキョウとしないことによって、1番との音数の差がいちじるしくなっている。
実際に聞いて確かめなければわからないけれど、
なぜこんなことしたのか、自分では、わからない・・・。
*
追記。
と、コキョウとフルサトとの読み方の、音数の違いについて書いたところ、
それほどちがわないんじゃないかと、実際に音源にあたってくれた方から、連絡があった。
それよりも、読みのちがいによる意味の変化のほうが大きい、との指摘もあった。
まったくそのとおりだ。
当時、僕がそこまで意識して書いていたかどうか、はなはだあやしい・・・。
さわがしい楽園