2012年2月8日水曜日
2012年2月8日水曜日
冬の音 作詞曲/及川恒平
F Dm B♭ C7
糸車 風の 音 だれ かのせなに 思い出 が
F Dm B♭ / B♭m F
糸車 風の 音 ピー ポー 吹い て おりまし た
B♭ Dm Gm7 C7
吊り橋 をわたり 栗林 をぬけ 辻堂 まえの 陽だまり で
Am C7
ピー ポー 遊んで おりまし た
F Dm B♭/ B♭m F
糸車 糸車 思 い出を つむぎましょう か
F Dm B♭ C7
落葉焚 き 冬の 音 だれ かの 頬に 思い出 が
F Dm B♭ / B♭m F
落葉焚 き 冬の 音 パチ パチはぜ て おりまし た
B♭ Dm Gm7 C7
遠い 街にある 飾り 窓の中 花嫁 衣裳や 口紅 や
Am C7
それ より きれいと 言ってみ る
F Dm B♭ / B♭m F
落葉焚 き 落葉焚 き 思 い出を もやしましょう か
冬の音
【2012年記】
この歌を書く前か後か、実際に糸車なるものを新潟で初めて見た。
やはり実物の存在感は圧倒的だった。
しかし、北海道という地にもし糸車があったとしても、ごくごく少なかっただろうし、
現存もしていまい。いやアイヌ民族の機織り機はあるだろうな。同様の仕組みなのだろうか。
この歌のタイトル「冬の音」は童謡の「たきび」から連想したというのは、
いうまでもない。
ぼくが小学生のとき、児童唱歌コンクールというのが地元のNHKでオンエアしていた。
何回か出場したうちのひとつにこの「たきび」を歌ったおぼえがある。
たぶんお気に入りの一曲だったのだろう。もうすっかり実感はないが。
それから、
遠い街にある 飾り窓の中 花嫁衣裳や 口紅や、、、
これは、
遠い山の向こうの静かな街よ いつか馬車にのって 行きたい街よ
飾り窓の店 あるという街 ポプラの並木のあるという街
だ。
ときどきこの唱歌をあいだに挟んで「冬の音」をうたうこともあるので、
聞きにきたかたには、おもいだしていただけるかもしれない。
もっともこの歌は舞台は北国のようだ。
しかしこうしてみるとジャパニーズテイストを醸し出す為に、かなり仕込みは入念であったようだ。
「おちばたき」の中に、さざんか、さざんか、さいたみち、というフレーズがあるけれど、
北海道にすむ子供に、どうやったってそんな風景を想像できるはずもない。
今春札幌で、俳句の入門講座(っていうきばったものでもないけれど)をやるが、
俳句のキモである季題、季語は、北海道という土地柄からはまるで外国のできごとだ。
いくらか、俳句論的な著作を読んではきたが、この季節のずれを掬いとって、
さらに肯定的な俳句論には出会っていない。正直に言って、できるわけがないのだ。
無季俳句、川柳で代用するというような機能論は、少数派だ。さらには説得力にとぼしい。
ぼくもそれは腑に落ちないところがあるし、
十七文字でことばあそびするだけならどんなふうにでもできそうだ。
季語の問題は俳句と向き合ったものが、道産子ならずともかならずぶつかる問題だ。
たとえば、さて旧暦と新暦のずれ、どうしよう、などと。
そんなハンディをかかえながら、俳句はやはり面白いものだと言いたいのだが。
★
【2002年記】
歌にも運、不運があるとすれば、この歌は幸運であったと言うべきだろう。
ポピュラーソングにとってレコードの売あげにたいした結びつかなかったものを、
そんな評価をするのはどうかという向きもあるだろうが、
ぼくの個人的なものさしによるとして、ご容赦ねがいたい。
四半世紀も以前の出来事を正確に思い出すのは、
ぼくにはとてもできない相談であるが、この歌を作った動機は忘れられない。
北海道出身者が「内地」という単語を口にすることはご存知だろうか。
家が漁業や酪農をいとなんでいるとすれば、
「内地」つまり本州、四国、九州を訪れるのは高校の修学旅行が、
最初で最後ということも、そんなにめずらしくない時代であった。
たまたまぼくは都内の学校に進んだので、北海道をはなれることになったわけであるが、
大学生活の最初は少なからぬカルチャーショックをうけつづけたのだった。
そのショックのみなもとは 「内地」人にとっては、
きっととるに足らぬことばかりだったと今ではぼくにもわかる。
例えば、春に花が咲くこと。それも一斉に、きそうように。
そして、その花びらの、それぞれが、大きいこと。
さらには、特別な場所にというのではなく、街中の家々の塀からこぼれるように咲いていること。
渋谷をターミナルとする省線に下宿のあったぼくは、定期券の途中下車ができるのを知るや、
下校時は気まぐれに見知らぬ改札口をとおり、歩き回ったのだった。
北海道には、すくなくとも釧路地方にはなかった、文字通りはなやかな春をあじわっていた。
ついでに報告する。秋にはたわわな果実まで、一般家庭の塀のなかになっていたのだ。
今でも、ぼくは花の名前をよく知らないのだけど、道産子は概してその傾向にあることを、
たまたま同郷者と雑談するときなど、それを感じてほっとしたりしている。
ちなみに、そうやってひとり遊びをしていたころ、ぼくは高校時代のままの、
学生服で学帽という、なんとか丸だしのいでたちであった。
しかし、何がどうころぶか、その格好はすぐのちに、
演劇部での公演にその学生服のまま「学生」という役でデビューするきっかけになったのだ。
話をもどそう。
そう春。ぼくがはじめて生活者としてむかえた季節は、強烈に「内地」を感じさせてくれた。
そして、どうもぼくが住んでいたのは、日本であって日本ではない場所だったと
考えないではすまされなかった。
「内地」があるのなら、「外地」があるのは当然で、その「外地」に北海道も含まれるのだと、
あまりにお気楽に「内地、内地」と連発していたので、気がつかなかっただけだ。
もっとも、まだ自分が「外地」に住んでいると気がついていない道産子は、けっこう多いかも・・・
そうやってぼくは歩き回っていて、家のたたずまいが、どうも北海道とちがうぞと思い出していた。
そう屋根だ。トタンの屋根が当たり前のぼくら「外地人」にとって、瓦はすごい。
純日本風だ。天平のいらかだ。そこでまた、がーんと一撃をくらうことになる。
大都会のはなやぎにも、もちろんじゅうぶん心うばわれつつ、
一方こんなありきたりの風景にもいちいちおどろいている、18才デシタ。
そして後日、音楽の仕事で旅するようになって、
ついに「内地」の山間部で本物のわらぶきの家に遭遇したぼくが、
その歌を書かないはずはないと、分かってもらえマスネ、ネ、ネ。
『冬の音』発表後のぼくの評価のひとつに、
日本的叙情派としてのフォーク歌手というのがあった。いいのかな、と思っていた。
いや、今でもずっと思っているからこそ、ここに書いたのだ。
単なるアコガレがこの歌を書かせたのだと、告白したかったのだ。
時効前に・・・うなされるので・・・。
過分の評価を受けた『冬の音』は、やがて某出版社のCMソングとして、
ラジオから流れるにいたり、あたかも先祖代代「内地人」が書いたような顔をして、
某フォーク歌手の代表曲のひとつにナッチマッタノデアッタ。ラッキーと言わせていただく。