2012年2月6日月曜日
2012年2月6日月曜日
シナモンの木 作詞曲/及川恒平
E C♯m A/A△7 E
小高い丘の森は 太陽の 香り
E C♯m A/A△7 E
遊ぶ小鳥の翼は 光に 濡れる
A E A E
幼い私は一人で 駈けて 嬉しさを拾って ポケットに しまう
A/B7 E
笑う事を憶えたのは その頃
E C♯m A/A△7 E
持ち主のない林檎が テーブルの 上
E C♯ m A/A△7 E
部屋は寒さに身を任せ 露が 光る
A E A E
若い私は 取り残されて 初めて煙草に 火を点けてみる
A/B7 E
泣く事を憶えたのは その頃
A E
おお人生 私の宇宙
C♯m G♯7 C♯m C♯7 F♯m B7
おお人生 私を 抱いていて ほしい
E C♯m A/A△7 E
シナモンの木に花が 黄色い花が 咲いた
E C♯m A/A△7 E
部屋の外で 新しい 新しい季節が 踊る
A E A E A/B7 E
A E
おお人生 私の宇宙
C♯m G♯7 C♯m C♯7 F♯m B7
おお人生 私を 抱いていて ほしい
A E
おお人生 私の宇宙
C♯m G♯7 C♯m ≒
おお人生 私は外に 出掛けます
E (rit. ) C♯m A/A△7 E
小高い丘の森は 太陽の 香り
シナモンの木
【2012年2月記】
この歌は、珍しく作詞作曲両方を依頼されてできたものだ。
のちに自分でも歌ってみたくなってLPアルバム「懐かしいくらし」に収録した。
そんなころ、両方を書けとの依頼を、キティレコードのT氏からうけた。
ことあるごとに書くので、しつこいのだが、ぼくは作詞家として音楽の世界で認知してもらった、
という事情があるので、なかなかこんな機会は無かった。
ある女性歌手用にとのことだった。
日本人ぐらいのものらしい、例えば演歌などで女性の立場で、その上おんなことばで、
男性歌手がうたったりするのは。
もっとも、逆に女性歌手が、男の立場でうたう歌は少ないが。
森田童子さんみたいに、自分を「ぼく」という女性は当時そこそこいた。
ぼくのまわりにもいたし、それについての違和感はほとんどなかった。
と、つぎつぎに脱線してしまったが、話をもどすと、
ぼくも女性の立場で、そしておんなことばで書くことになんの不思議もかんじていなかったと思う。
そんなわけで、のちに一字一句も変えずに自分のLPアルバムにいれられたのだろう。
この歌の冒頭「小高い丘の森」は、三十余年の間ぼくの中にあったらしく、
最近書いた「そこにいるのかな」という歌に出てきたと、今気がついた。
遠くから眺める丘 は 夏の 水に染まってい る
いつ かどこかで見た事ある この丘の森もそうだと気づ く
なあんだ、どおでり見たことあると思ったはずだ。
現在ぼくは、その丘にでかけては、せっせとジョギングなんかしているのも、
考えてみればしあわせなことかもしれない。
ただし、いずれまた、その小さな森からはなれるときもくるだろう。
現実にはもう見られなくなるかもしれない森だけれど、
その「現実には」という部分は、それほど大きなことではない気もする。
★
【2004年記】
阿久悠さんの作詞家としての守備範囲の広さは、驚異的であった。
ド演歌のベテラン男性歌手から、歌をろくに歌えない少女歌手 までを、(あっ、僕までもだっ)
くまなく網羅している。
阿久さんがたぶん、ご自分でおっしゃったか、書かれたかしているはずだが、
作詩するときには、その歌手の性、年齢、環境になりきると表現していたと思う。
後日、詩人の谷川俊太郎さんの言葉として、人づてに同じような感想をのべているのを聞いた。
驚いたような、みょうに納得したような。
僕の、経験というには、おそまつな作詞家体験でいうと、実は、少しは共感できるのである。
その根拠として、ユングの、アニマ、アニムス、シャドウ、グレートマザー、賢老人、仮面、
を揚げておこう、などと、フザケていている場合ではないけれど、
たねあかし、はやっぱり照れるのがフツウだろうな。。
ともかく、僕もこの歌“シナモンの木”を書いているときに、
自分の中に違った性、かけはなれた年齢、環境としての感覚も、
それなりにはあることに、締め切りに追い詰められながら感じたというわけなのだ。
この歌は聴いてもらえるとわかるけれど、若い女性の立場で書かれている。
しかし、今回の前フリにあるように、僕としては、
けっして自分にはないような思いを書きつのったというのでもない。
舞台装置、小道具、大道具としては、充分にうら若い女性のものだけれど、である。
それより、稚拙で大げさながら、この歌が書かれた当時の時代が、
はからずもかおをみせているような気がする。
造成され切り拓かれてい都市郊外に対する、哀愁にも似た思いがある。
当時僕は、そんな東京近郊に住んでもいた。
武蔵野の面影を昨日まで残していた雑木林が、旅から帰ってみると、跡形もなく消えていた。
そして、どんなに未熟であると、和製フォークは批判されつつもも、
どうやら個が個として、歌の形で声をあげてもいいらしい、という安堵もここにもあるようだ。
それまでは、おおむねは、演歌にある恨みや嘆き、歌謡ポップスにある青春賛歌や恋愛賛歌が、
はずしがたい歌の形として君臨していた。
内省的なモノローグタイプなんて、歌詞を書く上でのテクニック以上には、
ほぼ評価の対象外だった時代がけっこう続いたと思う。
この歌も、しろうとである僕たちの、僕たちも歌を歌いたい、作りたいという気持ちが、
形として率直に表れている一曲といっていいのだろう。
レコードという不特定多数のリスナーにむけて発信しているのは、
それまでの音楽産業上の形態と同じだけれど。
誰か、同じ思いの方はいませんか、いたら、手をあげて下さい、ど・こ・か・で・・・、
という願いがすべて。
この『シナモンの木』も、心の中で手をあげてもらっていたのだと、
四半世紀のちに、僕はコンサートでリクエストをもらうなどして知った。
たくさんの心をつかんだ歌と一緒にするのはずうずうしいと言われるのは承知で書くと、
これも、当時の新しい歌の流れを作っていった、一滴だったとはいえるのだろう。
ところが、これらのフォークは、残念ながら、様々な禍根を後に残してしまうわけだ。
その最大のものは、モノローグはモノローグでしかないということ。
このような歌に共感を持った人は、自分の独り言に置き換えて聞いているわけだから当然といえる。
むしろ、不必要なときを迎えるのが健全ともいえるだろう。
環境の変化、時代の変化とともに、こんな歌は眠りに落ちていった。
やがてひとは、もっと場を共有できる音楽を求め始める。
または、音楽そのものから遠ざかった。
一人遊びの好きな者は、ネクラといって警戒される。誰もがそう人に思われぬよう用心深く振舞う。
思えば、ちょっと不思議な時代が始まっていった。シナモンの木については、いつか。えっ!?