2012年2月12日日曜日
2012年2月12日日曜日
面影橋から 作詞/田中伸彦・及川恒平 作曲/及川恒平
(前奏) G ≒
G Em ≒ ≒
面影橋 か ら 天満 橋
G Em ≒ ≒
天満橋 か ら 日影 橋
Bm G Bm Em Bm
季節はずれの 風にのり 季節はずれの 赤とんぼ
G Em ≒ ≒
流してあげよ か 大淀 に
G Em ≒ ≒
切って捨てよか 大淀に
(間奏) Em Bm Em Bm Em Am Em ≒
G Em ≒ ≒
いにしえ坂 か ら わらべ 坂
G Em ≒ ≒
わらべ坂 か ら 五番 坂
Bm G Bm Em Bm
春はどこから 来るかしら 風に吹かれて 来るかしら
G Em ≒ ≒
めぐり めぐ る 思い出 に
G Em ≒ ≒
歌を忘れた 影法師
面影橋から
【2012年記】
フォークシンガーとして、この世にいてもいいとしてもらえた理由は、初期の段階で三つある。
ひとつは、演劇の世界になんとなくいたぼくが「雨が空から降れば」を創唱させてもらえたこと。
ひとつは、やはり演劇の中で歌った「面影橋から」を吉田拓郎さんがとりあげてくれたこと。
そして、作詞させてもらった「出発(たびだち)の歌」がヒットしたこと、の三つだろう。
どのひとつをとっても、どなたかの恩をうけている。
それは間違いないが、もっともぼくがうけた恩は「時代」というやつからかもしれない。
元々音楽は好きだったが、ついに今日という日まで音楽にかかわることになるとは、
当時のぼくには考えられなかった。
特に時代の先端をいくPOPSにくらいついていったのでもないし、
当時は流行歌の王道といってもよい演歌に、特に詳しかったのでもない。
そのころ自覚はしていなかったけれど、今ならこういえる。
子供の頃聞いて育った、唱歌、童謡が好きだったのだ。
田舎の男の子にしてみたら、かなり珍しい部類に違いない。
学校の音楽が嫌いで、フォークやロックにのめりこんだという話はよく聞くので、
なかなか言いにくかったが、ぼくは学校の音楽が嫌いではなかったのだ。
だから、ぼくの音楽的知識、たとえば譜面を読むなどといったものは、
ほぼ学校の音楽の授業でならったものだ。
いうまでもないが、音楽の専門学校ではない普通の授業ということだ。
そんなわけで、音楽の専門家というにはかなり恥ずかしい話だが、フォークシンガー10人いれば、
9人まではそんな程度の音楽知識、素養が出発点だろう。
さて「面影橋から」について書いてみたい。
この歌は吉田さんによってはじめて彼のLPアルバムの一曲として形をとどめた。
しかし吉田さんが歌ったものは、実はオリジナルとはコード進行が違う。
G Em Em G
おもかげばしか ら てんま ば し
と「ちゃんと」Gにもどっているのが彼の歌だが、ぼくが六文銭で歌ったものは
上の歌詞カードにあるように、Emのままだ。
このコードで演奏しようと決めたときの気持ちを、おぼろげながら思い出す事ができる。
Gに行ってしまうと、なにか安易に着地してしまう気がしてしかたがなかったのだ。
Emのままで歌いだした最初こそ不安だったが、グループのメンバーの賛同も得ていたので、
そのうち慣れたというか、これでいいのだと思えるようになっていった。
しかし、やはり常識的な正解は吉田流だと、自分でも思う。今でも思う。
歌詞もまた、吉田さんが歌ってくれたものと、ぼくがのちにソロデビューとして歌ったものは違う。
最後のフレーズ「歌を忘れた影法師」は、吉田バージョンは「歌うすべない影法師」となっている。
これには訳があり、ぼくも最初そうやって歌っていたのだ。
なにかひっかかるものがあって「歌を忘れた〜」に、ある日変えてしまったのだ。
そうとう迷っていた時期があるので、もしかしたら他の歌詞で歌ったものが残っているかもしれない。
こんなふうに、歌詞が変わるのはなにもそれほどめずらしいことではなかったようだ。
他のフォークシンガーに聞いてみたら、誰でもそんな経験があるような気がする。
訳は、当時のフォークシンガーにとって、レコーディングが歌の着地点ではなかったからだ。
ライブでノリが悪い、気に入らないとなれば変えたって、だれの迷惑にもならなかった。
この歌について書くときどうでもいいような事なので、つい忘れたり省いたりする事だけれど、
ここに書き残しておきたい。
2番の歌詞で三つ並んでいる坂のひとつ、五番坂は、札幌が出生地である。
と書いていいものかどうか、、。
子供の頃、当時三笠市にいた叔父と叔母に、彼らの子供達と共によく札幌市内に連れて行かれた。
北海道としては、大都会の札幌に行くのは観光としても、社会見学としても当時は行事といえる。
そんな機会には大人はまだ道内には数少ないデパートに行きたがったので、
あまり興味のないぼくは、歩くのをよくぐずったおぼえがある。
そのデパートのひとつに「五番館」があった。ぼくと同世代の札幌人ならたぶん記憶にあるだろう。
ウィンドウショッピングは辟易したが、あの五番館のレンガ色は、あざやかに心に残ったのだ。
そんな訳で五番館は、五番坂に返信したというわけである。
たぶん、やっぱりどうでもいい話だった。深謝。しかしぼく自身はこれですっきりしたな。
★
【2002年、東海の新聞に書いたものを転載】
天満橋は大阪。面影橋の所在地は知らなかった。でも曲は書ける。
ところで日影橋は劇作家の頭の中だ。
後日ありもしない「全国の日影橋を探そう」というキャンペーンをはったのは、
某ベルウッド・レコードです。
当時ぼくは大学の演劇部に籍があり、先輩の新劇団には座付き作曲者として加わっていた。
後に小室等と出会うことになるほかの劇団では、劇中で歌ってもいた。
最初『面影橋から』は、大塩平八郎の乱を題材の芝居で役者が歌った。
夢と現実の狭間を表現したもので、
実際の場所など知らなくてもなんの不都合もなかったというのが作曲家らしい言い分だ。か、どうか。
六文銭で『面影橋から』を歌った訳は、きっとほかに曲がなかったとかそんなところだ。
思い出してもしかたがない。おまけに最初はワンコーラスしかなく1分強で終った。
ところがそのありあわせの1分強が、どうも同世代の聴衆の心をくすぐったらしい。
ウケルためになんか歌っていないはずのぼくらもそれには敏感だった。正直モノだ。
あわてて2番の歌詞を書くことにしたのは言うまでもない。
日本文学科の学生というそれだけの理由で作詞者はぼくであった。
彫刻科や化学科のほうがもしかしたらという発展的な思考にはついにいたらなかった。
2番の歌詞はとりあえずの語呂あわせだから、実は録音によりしっかり違っている。
おまけにタイトルも『思影橋から』だったりもするし、『から』がなかったりもする。
誰のせいかは微妙なところ。
その場かぎりを歌うこと以外に、記録としてとどめる発想などのなかった頃には、よくある話だ。
と、思う。
だから六文銭のレパートリーは、なんとかの歌とかアタマの歌詞そのままとか、
そりゃそうだけどのパターンがじつに多い。
聴かれて苦しまぎれに団長の小室等がそう答えるのだから、ぼくら団員がそうするのは無理はない。
と、思う。
さて『面影橋から』はレコードとしてどれぐらい売れたのかぼくは知らない。
つまり知らされるようなシロモノではなかったのだ。
ところが不思議なことにこの歌は売れなかった歌としては、意外なほど知られている。
だからぼくもこれを書いている。
それにしても悔やまれるのは、"全国の日影橋さがし"キャンペーンだ。
あったからといってどうなるのだ。
もしどこか片田舎にやっと見つけたとして、その橋のたもとで歌ったからといってどうなるのだ。
きっちり思いつきだけ。戦略ミス以外のなんなのだ。すっきりした。
しかし、このてのカナシイ歌は、フォークというジャンルには結構あるような気がする。
ここにきて楽団『六文銭』の演奏がおもしろい。この歌を歌う機会もふえるだろう。
『面影橋から』現象は、
マスメディアが掴まえきれなかった流行がはばをきかしていた時代の、おとぎばなしだ。