もうひとつの世界 作詞曲/及川恒平
もうひとつの世界 作詞曲/及川恒平
2012年1月2日月曜日
もう一つの世界 作詞曲/及川恒平
【2012年記】
2011年秋、僕が制作させていただいている岡山国際市民音楽祭の一環としてのコンサートに、
長谷川きよしさんにきていただいた。
其の前後に幾度かお話しする機会を得たのだが、
どうもこの頁をご存知のくちぶりだったので、内心驚いた。というか、恐縮してしまった。
このライブの出演者が、ほかにあがた森魚さん、遠藤賢司さん、
そして六文銭だったこともあり、それぞれ30分程度の演奏時間だったが、
長谷川さんの選曲は、さすがとしかいいようがなかった。
ラストに歌われたのは、あの「愛の賛歌」。圧倒的なソングライターなのはご承知のとおり。
しかしあえてといっては語弊があるが、自身によるオリジナル曲ではなかった。
しかも、ほぼ長谷川きよしそのものだったことにも、驚かされた。
彼の音楽を語るとき、圧倒的なギターの存在感を抜いてはならないが、そんなことではなく、
ライブ音楽家にとって、オリジナルであれ、スタンダードであれ、
たった今のためのテキストにすぎないという前提で申し上げる。
言ってみれば、ミュージシャンとしての演奏曲目えらびは、ライブを成立させるための、
テキストとしてなされる。
もちろん、よい台本がなければすぐれた演劇が存在しないのと、同じ関係ではあるのだから、
演奏曲目は厳選しなければならないのは自明の理。
長谷川きよしさんは、それに則り「愛の賛歌」を選んだ。名演であった。
★
【2004年記】
『さとうきび畑』を作られた寺嶋尚彦さんがなくなられた。
上条恒彦さんもこの歌をコンサートでよく歌っていた。
不思議な語感の歌だと思ったけれど、むずかしいなと感じてもいたので、
僕は人前で『さとうきび畑』を歌ったことがない。
森山良子さんもそうだけれど、きっと歌手の意欲をそそる歌なのだ。寺嶋さんのご冥福を祈る。
この『もうひとつの世界』は在りし日の寺嶋さんにアレンジをお願いしたものだ。
フォークという“新種”の歌を料理するのはなかなか骨のおれることだったにちがいない。
と書いておきながらさっそく裏切るけれど、この編曲にはどこにもアメリカンテイストがない。
一応、アメリカのモダンフォークをルーツとして誕生したといえる和製フォークなんだから、
と、異議をとなえる必要もないのだけれど、アメリカがぜんぜんない。
あるのはヨーロッパ、シャンソン・ド・フランセだ。
アレンジがほどこされていっそうそうなったのだけれど、
アコーディオンの、哀愁あふれるあの響きだ。
じつは僕はこの曲が入っている『忘れたお話』の、全ての曲の編曲に関わったわけではない。
むしろ、ディレクターであるMさんと小室さんの発想によるものの方が多い。
だって、今となればこのアルバムのメダマは、
吉田拓郎さんも参加した「新・六文銭」が2,3曲演奏しているのだ !
そして、この曲も彼の考えにより、寺嶋さんにもちこまれたのだと思う。
Mさんの話をすると、当時フォークの旗頭として活躍していた彼であるけれど、
実際には、フォークに対するこだわりは、そんなになかったように思う。
もっと、柔軟に賑やかになりつつある状況を、楽しんでいらっしゃったはずだ。
だからこの曲は、実はカンゼンにシャンソンを意識して寺嶋さんにお願いしていると思う。
それでなければ大御所に依頼するはずもない。
おぼろげな記憶ではあるが、Mさんの口から、フランシス・レイ、という名が、
当時の彼との会話の中に出てきた記憶がある。
ところで、僕のシャンソンに対する意識はというと、
1960年代後半に学生として上京した僕かが惹かれたものに『銀巴里』がある。
この名前だけでわかる人にはわかる。そして、ひどくなつかしい。
和製シャンソンのメッカであった。
後年おしまれつつ、とじらたシャンソンのライブを聞かせてくれた店である。
僕は、その銀巴里に学生時代にけっこうでかけている。
主に長谷川きよしさんの弾き語りの日であった。
『別れのサンバ』のギターの指使いが知りたくて、3,4ステージ、つまり、開店から閉店まで、かぶりつきに陣取っていた。
そして、聞くというよりも、彼の華麗な指さばきを視ていた。
おぼえて家に帰って再現したかったからだが、僕には不可能なもののほうが多かった。
彼の作品は、『別れのサンバ』をはじめ、『歩きつづけて』『透明な風景』
など、シャンソンとしてはどちらかというと異色で
もっと正統派の歌い手のほうが大多数だった。
そんなわけで、シャンソンを聴きに行っていた、とは言いにくいな。
しかし、フォークを聞きに行っていたつもりも、さらさらない。
だいたいフォークって一般的にはまだなじみがなかった。
僕も、当時はフォークなど全然知らなくて、シャルル・アズナブール、バルバラ、
ブリジット・フォンティーヌ、のちにはジョルジュ・ムスタキと、
傾向などお構いなしに、巴里で歌っていた歌手が好きだった。
この傾向はフォーク歌手として活動してからも、それほど変わらなかった。
では、この歌を書く時点でシャンソンを意識したかというと、そんな覚えもない。
フツウに歌を書いたにすぎないのだが、04年3月にイギリス館でこの歌をうたったおり、
相当にシャンソンのにおいを感じた人もいたというから、やっぱり僕はシャンソン歌手か。
とかいうと、シャンソン歌手からしかられそうだし、じゃ、フォークかっていうと、
シャンソンぽいそうだし、けっきょく、
フォークの間口の広さというか、イイカゲンサに救ってもらって、
フォーク界にいさせてもらいますです。
もう少し冷静にブンセキするならば、
フォークはそれまでの日本の価値基準をゆるがすものとして登場したというわけだから、
『もうひとつの世界』にあるようなヌレソボリ方は忌み嫌うべき対象だったと思う。
一方、和製シャンソンは、この“花鳥風月”は当然のように取り入れてきたのだから、
僕のこの歌をシャンソンの亜流としては認知してくれるだろう。
その後のフォークが、では何を生んだのかは、ここでは言わないが、
ともかく図式としてはこんなところだろう。
本場フランスでもシャンソン・ド・フランセは経験主義とみなされて、
ルイ・アラゴン以降の、シュール・レアリストたちのいい標的になっていた。
しかし、シュール・レアリズムの役をこの日本で負うには、
フォークにはちと荷が重過ぎたのだろう。
すくなくとも、和製シュール・レアリストたちはフォークに見向きもしなかったようだ。
じつは、和製フォークの根底には『もうひとつの世界』でさえ、
あっと驚くような、強烈なジャパニーズがひそんでいたと言えないだろうか。
それでなくては、あの後の道程を説明しにくい。言わないと言いながら言いかけている・・・
Em Am B7 Em G C D7 G
貴方は笑 うよ 本当に 笑うよ 美し い 街 のよう に
Am B7 Em ≒ Am B7 Em G A
赤い 屋根 は もう似合わな い 都会の 朝 が ぽっかり と 始ま る
B7 A Em ≒
ほら もうひとつの 世 界
Em Am B7 Em G C D7 G
貴方は笑 うよ 本当に 笑うよ 風 走 る 空 のよう に
Am B7 Em ≒ Am B7 Em G A
蝉 の夕 立 じき止んだな ら 赤 い ペンキ が うっかり と 零れ る
B7 A Em ≒
ほら もうひとつの 世 界
Em Am B7 Em G C D7 G
貴方は 笑 うよ 本当に 笑うよ 美し い 街 のよう に
Am B7 Em ≒ Am B7 Em G A
速 い 会話 の傍ら で 珈琲の 湯気 が ユックリ と 立 ち昇 る
B7 A Em ≒
ほら もうひとつの 世 界