2010年12月26日日曜日
2010年12月26日日曜日
私の家 作詩/及川恒平 作曲/原茂
〔前奏〕 G ≒ ≒ ≒
なだらかな 坂道を 車が 登って行く
G/GΔ Am D/C Bm/D7
坂の 下 には 私の 家がある
CΔ Bm/Am D7 ≒
大きな木の葉が 空を隠している
G/GΔ Am D/C Bm/D7
あたたかい 風が 車の うしろで吹く
G/GΔ Am D/C Bm/D7
坂の 下 には 私の 家がある
CΔ Bm/Am D7 ≒
静かな昼下がり 誰かの声がする
Em Am
君が抱えている 絵の中の
Em Am/Am・E7
君が描いた 慎しい 絵の中の
A/AΔ Bm E/D C♯m/E7
さわやかな 春が 通り過ぎてゆく
A/AΔ Bm E/D C♯m/E7
坂の 下 には 私の 家がある
DΔ C#m/Bm E7 ≒
大きな木の葉が 空を隠している
A ≒ ≒ ≒
私の家
【 2001年記】
陳腐な言い方なのは承知のつもりだけれど、
この歌は、ぼくの青春時代を代表するものと言ってしまいたい。
青春なんてドロドロしていて云々、もわからないわけではないが、
そこらあたりに立っている看板ていどの意味での「青春」である。
そこらあたりの看板だって、あんたの青春よりふかい、と言われればすぐ、あやまるけれど…
ほかにも、この時期に書いた歌はあるが、
ほんのりとでも色づいている青春、といえば、ぼくの書いた中ではこの曲がそれだろう。
しかしそれが、どのあたりから発散されているのか、
ここだと自分では指摘できず、おもしろがっている。
この歌ができた日を思い出してみよう。
いつものように原の家で、二人でゴロゴロしていたのだった。
原のメロディが先だったかもしれない。
ギターをひいたり、レコードを聞いたり、そして他愛もない話でもしながらだっただろう。
実際、その部屋がうすぐらくなるほどの木の葉が、窓をおおっていたことを思い出す。
そして一方には、
当時デビューして間もないジョニ・ミッチェルの、レコードジャケットの絵柄が頭の中にあった。
その後、人前で歌うことになったこの歌だけど、
ともかく、ただその場の二人だけが満足するためのものだった。
その傾向が強いというより、まったくそのとおりなのだ。
そして、この歌の成立は、原茂というひとの生き方に負うところも少なくない。
彼はこれだけの曲を残しながら、ついに作曲家にならなかった。
彼の音楽の原動力は、当時のアメリカの西海岸を席捲した、
いわゆる「ウェストコースト・サウンド」への強い憧れだったと言える。
もし職業作曲家になるなら、
「アマイ」と一刀両断されるはずのその「あこがれ」のみの作曲家だったのだ。
ぼくは幸運にも彼の影響をたくさん受けとることができた。
その「すてきな」アマチュアリズムは、この歌を聴いてもらえば、わ・か・る。
★
【 2004年ごろ】
参考/私の家 (夢眠のフォーク畑014~ 著・夢眠)及川ではありません。
英国館でのコンサートが終わると、ボクは石川町駅に向かう。外人墓地の脇の、あの妙に間延びした階段の坂を下りていくのだけれど、条件反射のようにあの歌が浮かんでくる。
♪なだらかな坂道を~。
どうもボクだけじゃないみたいだ。あの歌を口ずさみながら歩いている人を、ボクは少なくとも2人は知っている。
話題変わって・・・
坂をめぐるボクの心象風景とは、たとえば、こんな具合だ。
……小学校からの10分ほどの帰り道の最後の200メートルをボクらは、心臓破りの丘と呼んでいた。
なんだか知らないけど、マラソン中継でそう言っていたし、なんとなく格好いいからだ。T字路を曲がった所、坂の一番下にSさんチ。彼女の「バイバイ」を合図に、ボクとK君はダッシュする。ほぼ100メートルでボクんチ。ボクを追い越し、ランドセルを揺らしながらK君はさらに駆け上る。80メートルほどで振り返り、右手を挙げて「じゃーなー」と叫ぶ。門の外で見ているSさんも手を振る……。
ならば、だ。ボクが「♪坂の途中に私の家がある」と歌ったところで、それは間違いじゃないだろう。
作者は憮然とするかもしれないが、自分のイメージに目をつぶり原詩どおりに歌うよりも、こっちのほうが歌も幸せなんじゃないかと思う。ま、ボクに歌われること自体は不幸せではあるけれど、思わず知らず、口をついて出てしまうくらいボクの内に入っているってのは、なかなかのもんだ。
民謡を調べると、なんだか似たような節(ふし)やら文句が出てくることがある。かと思えば同じ歌のはずなのに、微妙に違っていたりもする。これはすなわち、聴いてるヤツが勝手に覚えたんじゃあるまいか。中にボクみたいに、確信犯的に作り変えたってのもありそうだ。で、自分の子や孫に「これこそが本物だ」と教え込む。
だから、SさんちとK君チとボクんちで、微妙に違い、微妙に似ている3種類の歌が存在するのだ。あまりに変わってしまうと、原作者の著作権も危うくなるが、しかし、民謡作者にとって「詠み人しらず」ってのは、ある意味、勲章ですよ。
それが「民謡の活力」なんだ、と思う。変えてまで歌いたいほど、気に入ったのだ。そうじゃない歌なんて、とっくの昔に消えてしまったはずだ。楽譜どおりに歌わにゃならんなんていうのは、おそらく、明治以来の音楽教育の弊害であって、あるいは、保存会やら家元やらの深謀遠慮の結果なんであって、そりゃまあ、民謡を現代に伝えてきた功績は認めるにしても、冷凍保存してしまうと水気がなくなってしまうのだよ。
そういえば……。あの小学生3人組から10数年後。ある日の産院にKがいた。ガラスで仕切られた新生児室の前の廊下で、彼が「これか」とつぶやいた。
「♪コンニチワ赤ちゃん」
と歌いながら近寄っていたボクの後を引き取ってKが歌った。
「♪私がパパよ」。
ボクが歌詞の間違いを訂正しなかったのは言うまでもない。彼のキャラクターからすれば「俺が親父だ」のほうがふさわしいとは思ったが……。病室で待っていたSさんが、なんだか、まぶしかった。坂道の家が懐かしかった。